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桜沢如一が綴った60年の人生概要 新食養療法 P26〜抜粋
 私はすぎこし六十年をふりかえって見ました。
 私は六十年前に京都の町はずれ、サガノで生まれました。
 生まれつききわめてヨワク、母の乳がなく、第一回目の生まれ日をむかえるまでに五回も死にかけたそうです。

 マズシイ家でした。

 父は新宮の山オクの小学校の校長をやり、京都へ出てケイ官になり、十九で結婚した母は羽オリのウチヒモを内職にしていました。

 この母がとても男マサリで、京都の町へうつると、新島襄氏の門下になり、西洋文明風な思想と生活法をさかんにとり入れました。

 そのため、母は私が十歳の時、三十歳の若さで死んでゆきました。

 私と、六歳の弟だけがのこり、間の二人の妹は幼くして死んでゆきました。

 ソレカラ私と弟の二人はミジメナ、まずしい家の子として、母のない子として、悲しい日を迎えました。

 私は寺にあずけられました。

 間もなく母や妹の様に、私も血を吐きはじめ、十八歳の頃にはトテモだめだ、という状態になりました。

 そのオカゲで私は上の学校へもゆけず、薬や玉子や肉もいただけず、タクアンとウメボシくらいで生きていかなくてはなりませんでした。

 母が生きていたころは、朝はパンとミルク、ひるはオムレツでした。

 そんな伝統をふみにじった生活のために母は死んだのですが、ソンナ事とはユメにも知らない私は毎日世の人々をうらやましく思っていました。

 が、今かんがえると、私はナント云うシアワセ者だったのか、と思います。
(世の中のことは大ていコレです。ウラヤマシイことは大ていできない方がシアワセでウレシイことは大方不シアワセナ事です。それを五十五歳で私は知ったのです。)

 薬や、玉子や肉をフンダンにたべていたら、私は、そんなものをタクサンとって、死んで行ったでしょう。

 これはフシギなことです。
 こんなフシギなことはメッタにあるものではないでしょう。

 そのヒミツを私は今こそ、十二分に話すことができます。

 ナゼナラ、私はその後四十年間もつづけて、ソンナものをフンダンにたべて病弱になったタクサンの人々にソレラをピタリとやめさせて、健康な幸福な、オモシロイ、スバラシイ生活のシカタを示してはよろこばれて来たからです。

 二十歳の頃から正しい食をさがし、それによって健康の自信ができると、私は食物が生命のもとであること、すなわち『食物なきところに生命現象なし』と云うことを発見し、『すべての病気は正しき食物をとらねばケッシテ治るものではない』ということを大声で、あけてもくれても、それをひろめて廻りました。

 一貿易商の小僧の身で、全力をつくしてこれをやりました。

 そしてイツノマニカ一生をこのためにブチ込む決心をしていました。

 しかし、世の中は、この一病弱青年のサケビに耳をかしてくれません。

 反対されたり、キチガイ扱いをうけたり、後には医師会の圧迫をうけたり、暴力団におそわれたり、ケイ察でイジメラレたり、ワズカナ金をしぼって出した本を発売禁止されたり、ズイ分ヒドイ目にあったものです。

 ケレ共私の決心はかわりませんでした。

 一号易商の小僧から、支配人になり、社長になり、三十五歳で、キレイニ実業界から足を洗うまで、収入ノ三分の一は父とママ母に送り、のこりの大部分をこの食養運動のためにささげて来ました。

 食養雑誌を発行したり、純正食品やその加工品を分けるための事業部を経営したり、公衆をやって全国を走り廻ったり、健康学園や、健康道場や健康食堂をやったりしました。

 三十五歳から後は六十歳の今日まで、この食養戦線、健康戦線でばかりたたかって来ました。

 しかし何分軍国主義、官リョー政治、ドレイの民の国、官許アカデミシャン医学の社会では一民間治療師として一向ハエナイものでした。

 つまり六万人の官許医者とただ一人たたかったのですからムリもありません。

 そこで三十五歳の春、私は家をすて、一切をすて、タッタ二百円をもってヨーロッパに渡り、アチラの医学と、その本場のエライ人々に体当たりをやったのです。

 ツマリ相馬大作のヤリ方をこころみたワケです。

 始め三年ばかりパリでコジキ以下の生活をしながら、私はまず私の食物療法、自然医学をあちらの人々にとくために、新しいコトバ、現代人のコトバ(科学一般)を知るためと生活ヒを得るために苦労しつつ、その間にタクサンの病人を治しました。

 六年後にはもう十分、現代医学を征服する見込みがたちましたが、その頃から東亜の風雲が急になり、一九三六年に一寸所用のために帰朝したときから、皇族や当時の知識階級指導階級の人々から引っぱりダコになり、その内中国事件がはじまり、そのままアチラへ帰れなくなってしまいました。

 そこで私は夜を日についで大車リンになって、健康増進社会事業のためにはたらきつづけましたが、モトモト武士の家に生れ、大の国スイ主義に育てあげられていた私も、亡き母によって欧米風な思想や生活様式の洗礼をうけ、二十四,五歳の頃からしばしば欧米をまわり歩き、ことに一九二九年から、六年もつづけてアチラにいる間に、私はスッカリ世界精神にめざめ、かつ二六、七歳から独自の食物中心の生化学の体系をたてるために、自然弁証法的な思想を考え出し、これを私は無双原理と名づけて一九二九年ににパリではじめて発表したのです。

 生命の原理として、宇宙の秩序として、弁証法的に展開してやまない、一寸の間も固定しない、Changing Principle ツマリ不易でなく、易の哲学に深く入りこみ、予言をやる様になっていました。

 そして、健康指導をするのにも、よく予言をこころみましたが、社会や、文化や、人類や、歴史の上にも予言をこころみました。

タトエバ、四十三年前ニ『アラビヤ文字を国字とした如くローマ字をも国字としなくてはならない』と云って、ローマ字運動をはじめ、田中館博士、田丸博士のNRK運動の一派をつくり月刊R字雑誌『YOMIGAERI』を六年もつづけました。

 今、四十年後の今日、イヤオーなしに、この国の人々はR字を国字とせねばならない日をむかえました。

 この予言的行動のイミが、今でもハッキリ分らない人々は十年を出ない間に、ローマ字時代になったのを見ておどろく、精神的近視です。

 私の予言がこんな国語や国字問題にかぎられ、その社会運動にかぎられ、又個人の健康や病気や運命の予言のみにかぎられていたら、よかったのですが、私は国家の運命や、戦争の予言やら、敗戦、無条件降伏、亡国などについてまで予言を発表しました。

 そのため、ただでさえ強い風あたりをうけていた私の食生活確信運動はマスマス圧迫をうけ、遂には横暴な官ケンの手で無双原理研究所の解散を命じられたり、機関紙の発行をやめさせられたりしました。

 ツイニハ会員でケイサツにいじめられたり、暗い所へホーリ込まれたりゴーモンされて死んだりする人も出ました。

 私自らも、何回となくケイサツや検事局に呼び出されてイヤナ目に会わされ、ツイニ前後三回合わせて十ヶ月も留置場にホーリこまれたりし、ヤット終戦後、九月になってこの世に再び生きて出てきたのです。

 つまり病気から「健康の原理」をたずねて深く深く入って行った私はツイに『生命の原理』を発見しソレが宇宙の秩序であることを発見し、この生命の原理が『自由の原理』でもあれば『平和の原理』でもあり、スバラシイ幸福な人生の道案内でもあることを発見したのです。

 思えば四十年余りの私の人生修業を大へんな収穫をさせたのです。

 私はいま、この六十歳までの波ラン万丈の生活の思い出を語るヒマがありません。
 それは年おいてからにしましょう。
 
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桜沢如一年表 無双原理・易巻末を元に拡充中
1893(明治26)年  0歳。10月18日、京都市に生まれる。貧しい武士の家系。
                6歳の頃。警察官だった父親は愛人を作って家出。
                幼少時代は貧困・病気に苦しみながら寺の小僧、牛乳配達、店員、船員などを
                して生活をつなぐ。
                母は気丈な武士の娘で、キリスト教の洗礼を受け、西洋風のパンと牛乳の朝食
                を取り入れていた。

            11歳。助産婦をして一家をささえていた母親が結核で亡くなる。
               (和歌山県新宮市出身、32歳。その時既に二人の妹はこの世に
                なく、その後弟も結核で亡くなる)

1908(明治41)年 15歳。肺・腸結核など、多くの病気で苦しむ。

                「若い頃――17才の頃から私は詩歌の世界に入った。
                 18、9才の頃から京都で詩歌の雑誌『砂丘』を作って出した。
                 亡き母の故郷紀伊新宮の二人の友人
                 中野緑葉、下村悦夫が協力者であった。(略)
                 その関係から与謝野晶子さんの雑誌『スバル』に歌を出し、
                 間接に晶子さんに歌を見て貰った晶子さんは私の歌を見て、
                 『この人は女でせう』と云はれたと云ふ。
                 私はそれ位気の弱い、涙もろい女性的な少年であった
                 (略)」(「わが遺書」桜沢如一著より)
                                       
1912(大正元)年  19歳。食養家・後藤勝次郎を通して石塚左玄(陸軍薬剤監)の
                「食養正」に触れる。
                石塚は玄米と野菜中心の食事で数々の重病人を救い、奇人医者と
                呼ばれていた。
                絶望の淵にいた桜沢はこの「食養正」に一縷の光を見出し、肉や
                乳製品などを一切絶ち、玄米と野菜だけの生活を送ります。
                一時的に悪化したかに見えたが、一年後にはすっかり健康を取り
                戻した。
                
1913(大正2)年  20歳。苦学しながら京都市立第一商業高校で抜群の成績を収め卒業。
                神戸の貿易会社「滝波商店」に入社。実業界で活躍しながら、
                食養運動、ローマ字運動を続ける。

1924(大正13)年 31歳。石塚左玄が主催していた「大日本食養会」の会長となり、石塚の
                死後伸び悩んでいた同会の復興・指導に専念する。
               (ウイキペディア)

1928(昭和3)年  35歳。第1回無双原理大学講習を北海道で開催。

1929(昭和4)年  36歳。「無双原理」の実践的哲学を世界に問うため、単身シベリヤ鉄道
                経由でパリへ向けて無銭旅行を敢行し、ソルボンヌ大学へ留学。
                野草や市場のくず野菜を食べるような生活からスタート。
                
                「ソルボンヌ大学に留学」という解説もありますが、パリで開催
                されていた青少年の健全育成のための万国学生夏期講習キャンプ
                で炊事役としてマクロビオティックの腕を振るったことがきっか
                けで、ソルボンヌ大学で食養の講演をしました。
                その講演が話題となり、フランスの資産家などに食養の指導や
                日本文化を教えることで生計を立てるようになったというのが
                事実のようです。
                貼り付け元

                以後、毎年、日本に戻り、人間革命、世界平和のための論陣を
                張る。

1931(昭和6)年  38歳。仏文版「東洋哲学及び科学の根本原理」をフランス、ヴラン社
                (パリ)より刊行。
                東洋思想の紹介者として知られるようになり、アンドレ・マル
                ロー等と親交。

1935(昭和10)年 42歳。フランスより帰国。

1936(昭和11)年 43歳。夏。渋谷の公会堂での講演会に、病弱だった里真が毎月通って
                いた手のひら療法の創始者である江口俊博(桜沢とは石塚左玄
                の弟子である後藤勝次郎の弟子で旧知)と共に来て初めて
                出会う。

                里真が食養会に入会する。
                その頃、里真は30キロ位にまで痩せていた。

1937(昭和12)年 44歳。社団法人「食養会」の幹事に就任。
                『食物だけで病気の癒る・新食養療法』を発刊し、たちまち300
                版以上も増刷を繰り返すほどの注目を浴びる。

1938(昭和13)年 45歳。里真と結婚。

1939(昭和14)年 46歳。食養会会員1万人。理事会との意見が合わなくなり、大日本食養
                会本部付属・瑞穂病院の閉鎖を機に同会を脱退する。(ウイキペディア)

1938〜40(昭和13〜15年)45〜47歳。食養会会長に就任。この頃、会員は1万人を
                 超える。

1940(昭和15)年 47歳。滋賀県大津市に「無双原理講究所」を開設。本研究所より奥山治
                が育つ。

1941〜45(昭和16〜20)年 48〜52歳。反戦平和のため、身を賭して努力する。

1945(昭和20)年 52歳。軍国主義の政府に何回も当投獄され、最後には銃殺の宣告まで
                受けたが、マッカーサー東京入りの数日後、生ける屍になって
                半死半生の姿で釈放された。

                「新生活運動」を開始。

1946(昭和21)年 53歳。横浜勤労大学を創設。

1947(昭和22)年 54歳。世界連邦建設運動に奮闘。独自の立場から新しき世界を構築し、
                そのための人間革命を唱え、日本国内にとどまらず世界に向け
                発信し続けた。

1948(昭和23)年 55歳。M1(メゾン・イグノラムス<我知らずの家>、現在は日本
                CI協会)を、横浜・日吉に創設。

                本協会からは久司道夫、大森英桜、岡田周三、菊池富美雄
                らが育った。

1953(昭和28)年 60歳。半生をかけて探求した無双原理と生食法を伝道する
                <世界無銭武者旅行>に出、まずインドに向かう。
                (里真は初めての外国生活)
                ここから国際自由人としての活躍が本格的に始まる。
                「日本を永久に去って、世界各地の友達や偉大な人たちで、この
                 無双原理を理解し、この実用的弁証法を実生活化する人々を
                 たずねる旅に出ました。」
                (東洋医学の哲学ー最高判断力の書ー前書きより
                 日本CI協会)

                10月、サードハナ号でインド・カルカッタ、キダポール港に
                上陸。 
              
                カルカッタ・ニューデリー等で桜沢は東洋哲学の講義、里真は
                その一部の料理実習を担当し、たくさんの重病人を治す。
                毛沢東にオープンレターを送り、彼の健康と新生中国の政策に
                ついて提言するなど、世界的視野に立った発言を行う。

1955(昭和30)年 62歳。東洋医学の真髄を示すため、アフリカにシュバイツァー博士を
                訪ね、西洋医学、栄養学の限界とその改善を進言するが受け入れ
                られなかった。

                現地人と同様に暮らし、半ば自ら死亡率100%とされる熱帯性
                カイヨウにかかり、医薬を用いず、食物だけで治してみせたが、
                逆に追放にかかった博士に失望し、ヨーロッパに向かう。

1956(昭和31)年〜63歳〜。ヨーロッパ各地で活躍。多数の協力者、共鳴者を得て、出版を
                 はじめとする文化活動、食品の製造等に着手。

1957(昭和32)年 64歳。日本CI協会設立。月刊「新しき世界へ」改題発行。

1959(昭和34)年、66歳。弟子を引き連れアメリカはカリフォルニア・チコに移住しマクロ
                ビオティックの普及に努める。
 
1962(昭和37)年 69歳。ケルブランの生体原子転換の理論との出会いにより、生体における
                原子転換に着目し、研究を始める。

                桜沢のケネディ大統領暗殺の予言(翌年11月22日に実現)が
                ニューヨークの大新聞「ヘラルド・トリビュ−ン」の第一面記事
                に載る。

1964(昭和39)年 71歳。6月21日、自ら考案の装置にて、Na→Kの低温低圧原子核
                転換の成功を述べている(客観的な真偽不明)。
                (ウイキペディア)

1965(昭和40)年 72歳。戦時下のベトナムほかを訪問。帰国後、世界恒久平和のための
                国際会議「精神文化オリンピック」を提唱し、開催に向け準備
                に奔走する。

                暮れ、PU大学講座を開き青年達の指導を始め、四十数名の卒業
                生をだす。

1966(昭和41)年 73歳。生涯の結実ともいうべき「世界恒久平和案」と
                「意思教育五十年の実験報告」を発表。

                4月24日夕刻、永遠の世界へと旅立つ。
                52年間、全力で不老長寿、万病根治の秘法を説いたが、死の間際
                になると、それすらも自然の摂理の前には無効無用であったとも
                綴っている。

                死因は心筋梗塞(里真婦人と昼食中に倒れ、そのまま息を引き
                取った)。

                7〜8月、日本各地で「精神文化オリンピック」開催。

1999(平成11)年     里真婦人亡くなる。享年100歳。毎日朝夕の2食が原則
                だった。

                色々と料理を研究してみて、おいしいことも、からだによいこと
                もたしかに実験済みですが、ほんとうは玄米さえおいしく出来て
                いれば後はほんの添えもので、古たくあん二、三切、少々の
                金平、ゴマ塩位でことたり、栄養も十分で一番おいしく思えま
                す。
               (マクロビオティック料理 玄米食養家庭料理800種
                P199)右サイドバー参照
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